輝く星になって
飼っていた犬が死んだ。
夜。
今にも消えそうな小さな命の炎を守る術もなく、ただただ頭を撫でてやる事しかできなかった。
30数年前のあの時と自分がちっとも進歩していない事を思い知る。
ここしばらく、目も見えなくなって耳もよく聞こえない状態で、治る見込みのない病の薬を飲み続ける毎日だったから、覚悟はできているつもりだった。
それでも食欲だけは旺盛だったから、まだまだ一緒に居られる時間はあるんだと思っていた。
数日前。
俺が毎朝食べるバナナの最後の一口をいつも楽しみに待っていたのに、その日はそっぽを向いてしまった。
おやっと思ったんだが、それが予兆だったんだと今にして思う。
突然自力で立ち上がれなくなり、その日は仕事を早引けして医者に連れて行った。
彼が我が家に来てからのかかりつけだから、長い付き合いだ。
ぶっきらぼうな物言いとは裏腹にとても優しい、そしてとても優秀な獣医だと思っている。
診察をした時の獣医の表情や言葉の選び方で、もう為す術のないことを悟る。
とにかく少しでも楽になるようにと点滴を打ってもらい帰宅した。
ぐったりと横たわり、息遣いも次第に荒くなる。
いよいよその時が近いのだろう。
覚悟はできていたつもりでも、いざその時が間近に迫ってくるとうろたえてしまう。
夜には報せを聞いた娘が駆けつける。
息子は仕事の都合で帰ってこれなかった。
彼のそばに布団を敷いて、皆で夜通し側にいることにした。
いつ消えてもおかしくない炎を、必死に手のひらで隠すように守ろうと思った。
反面、次第に苦しさを増す息づかいに、早く楽にしてやりたいとの思いが逡巡する。
すでに全く起き上がる力を失った彼が時折しっぽを振る。
横たわりながら床をパタパタと叩く。
果たして苦しさを訴える最後の手段なのか。
あるいは楽しかった思い出の夢でも見ているのだろうか?
出来ることなら後者であって欲しいと祈りにも似た思いを抱く。
空が白み始める。
そろそろ夜明けも近いんだろう。
夜半に何度か危機を乗り越えた彼の息づかいも少し落ち着いたようだ。
相変わらず早いペースの呼吸には違いないんだが。
彼が危機的状況に陥るたびに、女性陣は盛大に泣く。
昭和の男はおいそれと泣くわけにもいかずちょっと羨ましく、苦しい。
明け方までろくに寝れなかったので、さすがに眠い。
まどろみの中で、彼との日々を思い出した。
彼と初めて会った日のこと。
笑いの中心にいつもいてくれたこと。
俺が悲しい時にそっと側にいてくれたこと。
悪さをして叱られて、寂しそうにしていたこと。
嬉しい事があった時には一緒に喜んでくれたことなど。
涙が溢れそうになるのを必死でこらえる。
いくつになっても、ダメだなぁと思う。
きっと家族みんなが同じような思い出があるんだろう。
多感な10代を一緒に過ごせた子どもたちには、きっとかけがいのない思い出のはずだ。
その日は午後から会社に行くことにした。
外せない打ち合わせと夜の予定もあった。
彼も悪いなりに小康をたもっているようにも見えたからだ。
夕方頃。
LINEの着信を知らせる通知があることに気がつく。
嫌な予感は的中し、それは悲しい報せだった。
事ここに至っては急いで帰る必要もなかったのかもしれないが、それでもその後の予定をキャンセルして帰宅することにした。
花を少し買ってきて欲しいとの連絡が入る。
適当な花束がなかったので、迷いながら花を選ぶ。
普段自分で花なんか選ばないからな。
「プレゼントですか?」
なんて答えたらいいのかわからない。
少し楽しそうに聞いてくる店員さんの気分を暗くさせるのも気が引けた。
「えぇ、まぁ」
家に帰るとダンボールで簡単にしつらえた棺に彼は眠っていた。
お気に入りの毛布。
大好きだったおもちゃやぬいぐるみに囲まれた亡骸はまるで眠っているようだった。
口元には大好きなジャーキーが添えられている。
彼にそっと触れるとまだ暖かい。
穏やかな表情に少しホッとする。
「よく頑張ったね」と声をかける。
散々泣きはらしたであろう女性陣にねぎらいの声をかける。
息子もあとで駆けつけてくるようだ。
買ってきた花をそっと添えて、出来上がりだ。
久しぶりに家族揃っての夕食。
自然と彼との思い出話になる。
楽しかったエピソードに笑い声が起きて食卓を包む。
こんな夕食は随分と久しぶりな気もする。
素敵な時間をプレゼントしてくれて、ありがとう。
もうずいぶんと昔の事。
飼っていた犬が死んだ時、こんなに悲しい思いをするくらいなら二度と犬なんか飼わないと心に誓った。
だけど、人生の何分の一かの時間をこんなにも彩り豊かにしてくれたのも事実だ。
そんな事を子どもたちに知って欲しくて、誓いを破った事に後悔はない。
出会いは必ず別れを連れてくる。
でも、人生は一度きりだ。
限りある時間だからこそ、別れを恐れるんじゃなくて出会いを楽しみたいと今は思う。
朝いつもと同じ時間に起きると、少し時間を持て余してしまう事や、
スーパーでペットフード売り場に出くわして胸がズキンとする事や、
「家に帰っても喜んでくれるのは犬だけなんですよ」なんてお決まりのジョークがもう言えなくなった事に今は寂しさしかないんだけれど、いずれそんな事にも慣れてしまって徐々に思い出す事も減っていくはずだ。
ちょっと薄情な気もするけど、きっとそうする事で人は生きていけるんだろうね。
こうしてブログに書けるほどには回復してきています。
今日、仕事先の駅前で「動物殺処分を無くそう」と訴える人たちを見た。
ペットを飼う事は正直大変です。
世話の大変さはもとより、お金もかかる。びっくりするくらいに。
家を借りるにもペットが飼える物件は極端に少ないし、費用も余計にかかる。
可愛いからだけでは飼い続けられない。
そんな覚悟や責任を感じないで簡単に飼い始めて、あげく飼育を放棄してしまう人間のエゴによって失われる命が悔しくも切ない。
小さくても大切で愛おしい命を失った今だからこそ、声を大にして言いたいと思う。
どんなに小さな命だって、人間のエゴによって失われて良い命なんて断じて無いんだよ!
彼を失ったあの日、部屋に戻ると視界の端に見覚えのある黒い物体が動くのが映る。
それが何かを察知した俺は、家族に声をかけて持ってきてもらったスプレーの一撃でミッションコンプリート!
いやぁ、ゴキジェット最強だぜ!(おいこら)
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